五島美術館・正門 |
静嘉堂文庫から二子玉川駅に出て、東急大井町線で一駅、上野毛で降り、五島美術館に向かいました。ここでは、「近代の日本画」展が開かれ、また通常は非公開の茶室を見ることができました。
1.五島美術館
五島美術館は、東急の創始者・五島慶太の美術コレクション、そして古写経をはじめとする書籍、茶道具などをもとに、1960年(昭和35)に開館した。このとき、1949年(昭和24)に創られた古典籍を中心とする大東急記念文庫を併設した。
五島慶太(1882-1959)は、数々のライバル企業を次々と買収し、「強盗慶太」の異名をとった。この時代、鉄道の普及にあたり、鉄道事業で財を成した実業家が、古典籍、美術品をコレクションし、また茶人として、美術館や庭園をつくっている。東武の根津嘉一郎は、青山に根津美術館を、西武の堤康次郎は池袋に西武美術館(現在は軽井沢のセゾン美術館)を、また関西では阪急の小林一三は、逸翁美術館をつくっている。
なお、五島慶太のライバルでもあった小田急の利光鶴松、東京地下鉄の早川徳次には、こうしたコレクションによる美術館などはないようだ。
2.「近代の日本画」展
五島美術館館蔵の近代日本画のコレクションの中から「人物表現を」を中心に、横山大観、下村観山、川合玉堂、上村松園、鏑木清方、松岡映丘、安田靫彦、前田青邨など、明治から昭和にかけての近代日本を代表する画家の作品約40点が展示され、また特集展示として棟方志功やゆかりの人物の作品 が並んでいる。
こうした名品の中で、とくに印象に残った作品は、寺崎広業「夏のひととき」と大澤竹胎「女-天に華」の2点である。
寺崎広業(1882-1919)は、秋田の生まれで、狩野派、四条派、南画など流派の異なる師に学び、写生の重要性を踏まえた作品、なかでも花鳥画や美人画を得意とした。展示されている「夏のひととき」は、竹の縁台に座る美人、周りには朝顔をはじめとする様々な花が取り巻く、全体に涼しさ、清らかさが漂う大作だ。寺崎の作品はこれまでにも見たことはあるが、これだけインパクトのある作品は初めてである。
特集展示のコーナーには、棟方志向の作品も展示されていたが、棟方と親交があったという大澤竹胎の作品に惹きつけられた。大澤竹胎(1902-1955)は、兄・雅休とともに書道家であったが、1949年に棟方と出会い、板画を始めたという。棟方の主催する日本板画院」の会員となり、この「女-天に華」は1954年の日本板画院展に出品された。
この作品につけられた文字は、「地に草 我はそこにあり そこにありといふ ことも忘れて」と、女体にまとわりつくように書かれている。
大澤竹胎という書家も初めて知ったが、その板画、そして絵につけられた書にも惹きつけられた。棟方にも引けを取らないインパクトがあった。
参考:
『大澤竹胎の書と板画』図録 五島美術館 平成4年
3.建築・吉田五十八
美術館本館の建物は、建築家・吉田五十八(よしだいそや)による設計で、王朝貴族の建築様式である寝殿造の意匠を随所に取り入れた建物となっている。これは、美術館が所蔵する国宝2点「源氏物語絵巻」と「紫式部日記」の舞台であることから設計された。(なお、この国宝2点は、春に源氏物語、秋に紫式部日記が、それぞれ特別公開される。)
吉田五十八(1894-1974)は、数寄屋建築を独自に近代化した建築家として知られる。1930年代にブルーノ・タウト桂離宮等の数寄屋造の中にモダニズム建築に通じる近代性を評価したことから、数寄屋造が広く注目を集めることにつながった。
五島美術館は、吉田の代表作の一つとされ、他の美術館としては、大和文華館(奈良市)、玉堂美術館(青梅市)があり、成田山新勝寺の本堂なども手掛けている。
4.茶室
五島慶太は、古写経のコレクションに関しては質が高く、日本一と自負していて、自らの号を「古経楼」としていた。小林一三、松永安左衛門、畠山一清らの勧めで茶の湯にも関心を持ち、ここには、号の名前を冠した「古経楼」、「富士見亭」といった茶室がある。
「古経楼」は、明治39(1906)年に逓信大臣等を歴任した政治家・田健治郎が建てた「茶寮」で、その後、昭和10(1935)年代初めに五島慶太の所有となり、昭和15(1940)年には西側の一部を取り壊して茶室「松壽庵」を増築した。
「松壽庵」は、小堀遠州好みの席を参考に近代的な明るく開放感のある空間を造り上げている。当時の茶道建築界の第一人者であった仰木魯堂の門下である蓑原善次郎による設計による。
「冨士見亭」は、昭和32(1957)年頃、晩年足の不自由になった五島慶太の発案により、履物を履いたまま腰掛けることのできる立礼席の茶室で、広い肘掛窓からは、晴れた日には富士山や丹沢の山々を眺めることができたことから「富士見亭」と名付けられた。茶室各部には奈良西大寺山門の古材を用いるなど随所に意を凝らしているという。設計は、数寄屋造りの名人という藤森明豊斎(1911-1996)による。
(1)古経楼
(3)冨士見亭
「冨士見亭」の文字は五島慶太の自筆 |
肘掛窓 |
道標と富士見亭 |
5.庭園・石造物
五島美術館は、静嘉堂文庫と同じように、国分寺崖線が舌状になっている場所に位置し、敷地は庭園を含めると約6000坪もあり、その高低差は30mほどもあるという。以前は、田健治郎の「万象閣」であった。庭園には、先に述べた茶室の古経楼と冨士見亭が、崖線の高低差を利用して配置されている。さらに、自然環境をそのまま残したという庭園には、伊豆や長野の鉄道事業の際に引き取ったという多くの石仏、石塔、石灯籠などの石造物が点在している。 駒沢通りに面した出口側には、春山荘門があり、山門の前に立つ石塔には「不許葷酒入山門」(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)とあり、にんにくなど臭いの強い野菜は他人を苦しめるとともに、自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これを口にしたものは清浄な寺内にはいることを許さないということを意味し、多く禅宗の寺の門前に立つ結戒の一つである。 さらに階段の先には石造の大日如来が鎮座している。もはや庭園であることを忘れ、山奥にある寺院に迷い込んだような景色である。
庭園については、造園家・高村弘平が設計している。高村弘平(1901-1989)は、上原啓二や井下清のもとで学び、近代造園草創期の造園家として活躍し、鉄道会社が積極的に展開していたレクレーション施設の建設に多くかかわった。五島美術館の庭園の他、多摩聖蹟地計画、碑文谷公園、円山公園、須磨海浜公園、二子玉川園、大船観音などの造園作品を手掛けている。1971年からは東急グループ傘下の造園会社となっている。
春山荘門 「不許葷酒入山門」 春山荘門と山門 大日如来像 大日如来像 六観音 六地蔵 六地蔵 六地蔵 六地蔵
点在する石仏 |
庚申塔 |
庚申塔 |
石社 |
見晴荘 |
石灯籠と脇に羊 |
見晴台 |
四阿 |
湧水の池 |
石塔 |
赤門 |
赤門 |
崖の緑の中に石塔 |
実業家・五島慶太のコレクションをもとに設立された五島美術館は、その絵画、古典籍等はもちろんですが、本館の建築、茶室、庭園、そこに置かれた石造物など見るものがたくさんありました。この美術館にも何度か訪れたことはありますが、いつも美術展のみを観て帰っていました。今回は、通常は非公開となっている茶室も特別公開されていて、観ることが出来ました。また、庭園内に点在する石仏などは、寺院にも引けを取らないと思うほど、多く、また優れたものでした。静嘉堂文庫もそうですが、こうした美術、古典籍、建築、茶室、庭園などの日本文化が実業家の手によって維持され、公開されていることに日本近代の歴史の一端を見るようでした。
静嘉堂文庫美術館と五島美術館とを対比して振り返ってみると、絵画では、静嘉堂では近世の日本画、とくに円山応挙、渡辺南岳の美人画では遊女的なあやしい美しさを、五島では近代の日本画を、とくに寺崎広業と大澤竹胎の美人画では、明るく開放感のある女性美を描いていました。また、建築では、静嘉堂ではジョサイア・コンドルとその門下である桜井小太郎の設計による英国風の住宅スタイルの文庫、ニコライ堂を思わせる異国風の廟堂という西洋的クラシックな建物を、いっぽう、五島では数寄屋造を得意とした吉田五十八による本館の寝殿造を、また 古経楼や富士見亭といった茶室など日本的伝統を踏まえた建物を対比的に見ることができました。庭園では、静嘉堂も五島も、どちらも国分寺崖線という地形を活かしたより自然な庭園となっていて、江戸時代の大名庭園のような広大な池泉回遊式庭園とは、全く異なる庭園づくりとなっていました。ただ、どちらにも石仏や灯籠など伝統的な添景があるとともに、芝生のスペースも造るなど和洋折衷的な要素もありました。
明治から昭和にかけて台頭した実業家によるこうしたコレクションに、近代における伝統と文明の交錯した歴史を垣間見るようでした。
0 件のコメント:
コメントを投稿