自然教育園 |
大名庭園の小石川後楽園、池田山公園に続いて、白金にある自然教育園に行ってきました。ここ自然教育園が、大名庭園だったとは知りませんでした。というのも、庭園らしき、石組や石灯籠といったものは見当たらず、自然に任せた植生や、草花の観察ができる「自然植物園」で、都会の中の緑のオアシスだと思っていました。自然教育園の沿革から見ていきます。
1.大名庭園
(1)高松藩下屋敷
自然教育園は、室町時代には、白金長者と呼ばれる豪族が館を構えたと伝えられ、園内を歩いていくと、その遺構とみられる土塁、館跡がある。江戸時代になって、中世の白金館一帯はしばらく芝増上寺の土地となっていたが、1664年(寛文 5)に初代高松藩松平讃岐守頼重に下屋敷として幕府から下賜された。 高松藩松平家は、明暦の大火(1657年)の被災により、江戸城に近い桜田の上屋敷を返上して、当時としては江戸の都市域からはずれた目黒の地(現在の白金台)に下屋敷を拝領した。先に池田山公園(池田藩)にみたように他藩も避災のため、その近辺に下屋敷を拝領し始めていた。その後、抱屋敷(大名家の私有地)を買い取るなどして、幕末期には6万坪を超える面積となっていた。同藩はこれを目黒屋敷と呼んでいたが、もともとは白金村・今里村および上大崎村の田畑または荒れ地であった。 しかし、この屋敷地は、高輪付近から目黒方面にいたる往来の多い道筋(現・目黒通り)に面しており、通りの両側は早くから町場化し、白金台町という町名に変わっていった。高松藩2代藩主松平頼重(よりしげ)(1622-1695)は、この屋敷に移り住み、隠居した後は、江戸在府中のほとんどの時間をそこで過ごしたという。
(2)松平頼恭と平賀源内
江戸中期、藩財政の再建に尽力した5代藩主頼恭(よりたか)(1711-1771)は、殖産振興をはかる基礎として博物学や本草学を重視し、国元には高松の名園として知られる栗林荘(現・栗林公園)に薬園を設け、平賀源内(1728-1780)らに領内各地から様々な植物を集め栽培させた。目黒の下屋敷にも薬園を開き、源内らを江戸に伴って差配をさせ、自身も在府中、月に三度は現地に出向き、そのまま作業小屋に入って草木の手入れや道の普請などを行ったと伝えられている。いまも自然教育園で見ることのできるトラノオスズカケという植物は、四国・九州の温暖な地のみに生育する希少種であるが、平賀源内がおそらく故郷から種子を運んで栽培していたものが野生化したのだろうと推察されている。
また、頼恭は、博物学者としても一流で,彼が画家三木文柳に描かせた魚譜『衆鱗図』,禽譜『衆禽画帖』,草木譜『衆芳画譜』といった博物図譜は写実の極を示す逸品として知られる。
高松藩の下屋敷には、やはり池泉回遊式庭園があったとされ、その名残といわれているひょうたん池の池畔には、「物語の松」と呼ばれる松がそびえている。この松の木を見ると、途中までは手入れよく剪定が行われ、枝がグネグネとしているが、剪定を止めた途端に、枝はピンと真っ直ぐに空に向かって育ったのがわかる。また、同じく江戸時代からあるとされる松は、その太い幹が上空に伸びる姿が、まさに大蛇のようであることから「おろちの松」と呼ばれていた。しかし1979年の台風により樹高33mある幹の上から8mが折れ、さらに、2019年の台風では、根ごと倒れてしまい、今はその太い幹、大きな根っこをそのままに残して、その姿を留めている。
江戸時代までは、大名庭園に配置された松は手入れをされ立派な姿をしていたと想像されるが、明治以降は、自然のままに手をかけずに育った姿、それが「物語の松」であり、「おろちの松」のその最後の姿である。
土塁 |
途中から空に向かって伸びる「物語の松」 |
「物語の松」 |
根こそぎ倒れた「おろちの松」 |
太い幹が横倒しになった「おろちの松」 |
「おろちの松」 |
平賀源内が持ち込んだとされる「トラノオスズカケ」 |
2.自然教育園
(1)自然教育園の沿革
明治期になるとこの下屋敷の跡地には陸海軍の火薬庫が置かれ、一般人の立ち入りは禁止された。1917年(大正6)には陸軍から宮内省に移譲され、白金御料地となった。戦時中は田畑にされ、防空壕が掘られるなど荒廃が進んだ。戦後になり、隣接する国立教育研修所が演習林として利用していた経緯などから文部省に移管され、1949年に「国立自然教育園」として公開された。現在の正式名称は「国立科学博物館附属自然教育園」となっている。また、1933年(昭和8)に白金御料地の一部は朝香宮邸(現・東京都庭園美術館)となった。
自然教育園は、山野の道端に生育する野草類がみられる路傍植物園、武蔵野の草原や雑木林が残る武蔵野植物園、池や湿地に生育する植物がみられる水生植物園などがあり、植物だけでなく、ここに集まる鳥や動物、昆虫などを観ることができる。
自然教育園では、出来るだけ自然のままという半自然を基本にし、自然を保護するため、一般の公園とは違い、入園者が同時に300人を超えないよう制限されている。
しかし、1967年には高速道路が園内を通過する計画が持ち上がり、結局、園の西側外周を沿って通ることになり、それによって分断された飛び地が出来たり、大気汚染の影響を受けたりしている。都会の喧騒を避けるオアシスでもあるが、同時に都市開発に伴う悪影響が植生にも及ぼされ、松などの針葉樹が後退し、落葉広葉樹が主体となり、また草地的環境や湖沼の環境も悪化しているという。
明治時代からのこの地の所有の変遷を見ると、陸・海軍の所有となり、樹木が伐採されたりはしたが、一般人の立ち入りが禁止されることにより自然が保護され、その後は、御料地(宮内省)となり、戦後は文部省に移管され、国有地として保護されたといえる。現在も、極力人為を排除して保護 され、大都市における広大な緑地が、厳格に保護管理 されているという貴重な場所である。
参考:
「天然記念物及び史跡旧白金御料地 保存活用計画」国立科学博物館附属自然教育園2022年
https://ins.kahaku.go.jp/about/plan/download/hozonkatuyoukeikaku_202203.pdf
湿地 |
「二人静」 |
「破れ傘」 |
「ほうちゃくそう」(おうちゃくそう ではないヨ) |
(2)旧朝香宮邸
いっぽうで、自然教育園とは対照的に、御料地の一部は朝香宮邸となり、アール・デコを取り入れた建築、内装に加え、西洋風庭園の芝園と日本庭園が造られている。日本庭園には茶室「光華」もあり、池を中心とした回遊庭園となっている。手掛けたのは「昭和の名工」といわれた平田雅哉(1900-1980)である。
旧朝香宮邸の変遷の概略をみておくと、
1933年 朝香宮邸が竣工。
1947-1954年 吉田首相の公邸として使われる。
1955-1974年 白金迎賓舘として使用。このとき西武鉄道に譲渡され、高層の白金台プリンスホテルとする建設計画 もあったという。
1983年東京都庭園美術館として一般公開される。
白金御料地のうち、自然教育園は、できるだけ人の手を加えず半自然の姿で維持したのに対し、旧朝香宮は、西洋的建物に、西洋風庭園と日本庭園を合わせ持つ姿になり、大名庭園が、近代的庭園となって引き継がれているといってもいいのだろう。それにしても、高層のホテルになって庭園が失われるようなことがなかったのは幸いであった。
旧朝香宮邸と芝庭 |
日本庭園・右に茶室「光華」 |
大名庭園は、明治以降に誰に、どのように、所有され、維持管理されたかにより、その姿が大きく変わる。もちろん、庭園そのものも時間とともに変化するが、維持管理にも大きな費用が掛かるものであることから、所有・管理する側の盛衰によるところが大きい。さらに言えば、庭園の盛衰は、時代の、そして文化の盛衰を反映するものだといえるだろう。
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