6月3,4日の二日間に限って、両国の回向院で鳥居清長展が開かれていたので観てきました。回向院が所蔵する鳥居清長の作品のほかに、川崎・砂子の里資料館からの作品など約40点が展示されていました。
1.鳥居清長(1752-1815)
鳥居清長は鳥居派の4代目の浮世絵師である。鳥居派は、元禄期から芝居の看板絵、役者絵を扱ってきたが、清長は、 「江戸のヴィーナス」ともいわれるすらりとした八頭身の美人画を得意とした。鈴木春信、喜多川歌麿にはさまれた天明期を中心に活躍し、その後の写楽、北斎、広重とともに、六大浮世絵師の一人とされる。なお、鳥居派は、現代まで続く唯一の流派で、現在は清光で9代を数える。
展示された作品では、「女湯」という当時の銭湯を詳細に描いた浮世絵がある。この作品は、川崎・砂子の里資料館の所蔵であり、ボストン美術館の所蔵と、この2点しか知られていないという。しかし、ボストン美術館所蔵の作品は、性器部分を隠すように手が加えられており、砂子の里の作品のほうが、もと作品のようだ。
ほかにも、「初春の越後屋」という作品は、現在の三越の前身である越後屋のいわばポスターであり、また「水茶屋の女と男客」という作品は、茶屋のチラシともいえるだろう。浮世絵は、そうした広告媒体でもあった。あるいは山王祭を描いた作品が何点かあったが、これらはニュースを伝える新聞、かわら版といったものともいえる。もちろん、当時の風俗を描いたものとしても貴重な資料となっている。
鳥居清長の作品以外では、北尾政寅(山東京伝の浮世絵師の号)の「花魁と禿図」や、伝葛飾北斎の「美人立姿図」など、美人画を中心として見応えのある作品が展示されていた。
ところで、なぜ、回向院で鳥居清長の展覧会が開かれるようになったのか。それは清長の墓所が回向院であったということからだという。しかし、墓石は、関東大震災か、戦災か、いずれにせよ失われていて、過去帳のみにその法名の記録が残されていた。そこで、2013年(平成25)に、清長没後200年を記念して顕彰碑が建立され、また清長の作品の展覧会が開催されることとなった。その後、コロナ渦のため、4年ぶりに今回の開催となったということである。
「女湯」ボストン美術館所蔵版・Wikipediaより 鳥居清長碑 鳥居清長碑
2.回向院
回向院は、明暦4年(1657)に起きた「振袖火事」ともいわれる明暦の大火により10万人以上が亡くなったとされ、その多くは身元や身寄りのわからない人々であったことから、時の4代将軍・家綱が「万人塚」という墳墓を設け、法要を営むためにこの寺を建てたというのが始まりとされる。その後も安政の大地震など、多くの無縁仏を供養するための石碑が建てられた。
また、長野・善光寺などの出開帳も開かれ、隅田川の花火、さらに勧進相撲が行われるなど、江戸の繁華の場所となった。現在も両国国技館があるのは、この回向院の勧進相撲を起源とする。
境内には、力士の霊を祀る「力塚」や、見四季江職人の無縁塔、義賊・鼠小僧の墓などがあり、また、老中・松平定信の命によって造立された「水子塚」は水子供養の発祥とされている。
回向院から、JR両国までの国技館通りには横綱の土俵入りの姿の銅像がいくつか置かれている。また付近にはちゃんこ鍋のお店が多くある。
鼠小僧の墓 |
水子塚 |
錦絵職人の無縁塔 |
錦絵職人の無縁塔 |
安政の大震災などの供養塔 |
万人塚 |
横綱土俵入り像・国技館通り |
横綱土俵入り像・国技館通り |
横綱土俵入り像・国技館通り |
両国国技館 |
JR両国駅ホームから見るちゃんこの店 |
両国の回向院で、鳥居清長の浮世絵を観るという、ちょっと変わった展覧会に、江戸の浮世絵が描く風俗画、美人画がその時代の情報メディアであったことを、また回向院という無縁仏を供養する寺院の歴史に江戸の繁華の様子を垣間見るようでした。
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