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旧前田家本邸 |
東大駒場キャンパスの西の端から出ると、駒場公園の入口があります。ここには、旧前田家本邸などがあります。旧前田家本邸には、2019年2月に訪れて、その豪華さ、素晴らしさに感動した覚えがあります。今回も、あらためて、その建物の素晴らしさ、内装の豪華さに驚きました。
旧前田家本邸の歴史を、その当主であった前田利為(1885-1942)の生涯とともにみていきたいと思います。
1.本郷から駒場へ
駒場に造られた旧前田家本邸は、本郷にあった加賀藩の敷地と駒場にあった農学校の敷地を旧制第一高等学校と、前田邸とに分割し、交換して建てらえたものである。
もともと本郷の土地は、1616年(元和2)に加賀藩下屋敷として江戸幕府より給わったものである。明暦の大火により江戸城近くにあった上屋敷が焼失したため、本郷を上屋敷とした。敷地は10万3000坪。明治維新となり新政府は本郷の土地の返還を求め、改めて敷地の西南約1万3000坪を前田家に給付し、約9万坪が東京大学の敷地となった。
のちに加賀・前田家の当主となる前田利為(としなり)は、1885年(明治18)に生まれた。先代の前田利嗣は、戊辰戦争で焼失した邸宅を改築・新築して、本郷邸に、天皇の行幸啓を仰ぎたいと望んでいたが、志半ばで病に倒れてしまった(1900年明治33)。利嗣と養子縁組し、17歳で、加賀本家16代当主となった利為がその遺志を継ぎ、工事を進めるも、日露戦争により一時中断し、あらためて工事再開し、西洋館、日本館、そして庭園を造りあげた。1910年(明治43)に天皇の行幸が行われた。利為、満25歳の時である。行幸が決定となった時、利為は日記に次のように記している。
「噫!!何たる光栄ぞ。・・・惟ふに之れ実に一大事件たり。労苦厭ふ所にあらず。財宝惜む所にあらず。唯皇室の御尊顔を重んじ、苟も敬礼の欠く所あるべからざるなり」
その後も、加賀の殿様として、世俗の侯爵として、そして陸軍大将として、生涯を通じて「皇室の藩屏」たらんと尽くした利為の心情をここに見ることができる。
1923年(大正12)、利為38歳の時、先妻・渼子が亡くなり、その年に関東大震災が起こるとともに、もう一つ大きな問題を抱えることになった。それが前田家が270年近く住んだ本郷から駒場への移転問題であった。関東大震災の復興のため東大から、敷地を拡張して大学を整備したいと、前田家に本郷と駒場の土地の等価交換を申し出があった。
これに関して、利為は以前より、本郷から本邸を移す構想を持っていた。彼の方針は「本郷邸は市内の雑踏の中にあり、邸宅として繁華に過ぎる。その上、建物も大きくて簡易な生活には適さないので、自分は他に適当な場所を探して移り、・・・本郷の邸は、明治天皇行幸の折の建物などは残し、公共に提供する」というものであった。
そして、本郷の建物と土地と、東大の所有する駒場農学部の土地4万坪に地続きの代々木演習林1万坪を加えた5万坪との交換を決めた。
1926年(大正15)には、早くも駒場邸の地鎮祭を行い、東大との土地交換の契約書が結ばれた。しかし、翌年、利為は駐英大使館付武官として渡英することになった。
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本郷の前田侯爵邸の西洋館 |
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行幸に向けて整備された庭園 |
2.旧前田家本邸
駒場の前田家本邸は、利為が駐英中に行われることになった。敷地内には、豪華な洋館が建てられる。外観はイギリスのチューダー様式で、内部は、王朝風の室内装飾とし、ところどころに唐草や雛菊をあしらった日本の伝統的な文様を施して、日本の情緒を醸し出した。設計に当たっては、建築委員会を開き、その決定を赴任中であった利為に報告し判断を仰ぐというやり方で進められた。洋館の設計は東大の塚本靖教授と宮内省内匠寮の高橋貞太郎があたった。塚本は、ソウル駅、浅草寺の設計者で、高橋は内務省、宮内省の技師として活躍し、皇族・華族の邸宅、聖徳記念絵画館や学士会館、川奈ホテル、高島屋東京店などの設計を手掛けている。
昭和4年(1929)に洋館が、昭和5年に和館が竣工した。最初は洋館のみを建設する予定であったが、のちに外賓のための施設として和館も計画された。洋館1階は晩餐会を行なう重要な社交の場で、2階は家族の生活の場であった。洋館の前には、西洋風の広大な芝庭を造り、洋館と和館は渡り廊下でつながっており、行き来が出来た。
和館は帝室技芸員の佐々木岩次郎が担当した。佐々木は平安神宮などを手掛けた京大工である。茶室も設けられ、数寄屋大工の木村清兵衛が手掛けた。
作庭は明治神宮の森の造営にも携わった近代の造園家・原煕(はらひろし)による。和館は洋館と比べるとこじんまりしていて、実際にこちらは生活の為ではなく外国からの賓客をもてなすための建物であり、築山と流れによる回遊式の日本庭園であった。
豪華な英国風の洋館と芝庭、そして和館には茶室も設けられた回遊式の庭園をつくり、生活の場だけでなく社交の場としたことについて、利為は次のように述べている。
「この家は、外国との体面上作ったのだ。自分は欧米諸国を歩いて常々残念に思うことは、わが国には外国からの貴賓を迎える邸宅がないということである。日本にもこの程度の家がなければならないのだ。」
利為が、英国での任務を終え、帰国して新邸宅に入ったのは、1930年(昭和5)、利為45歳の時であった。翌年には満州事変が勃発し、時代は大きく戦争に向かっていった。
3.本邸のその後
本邸では、晩餐会が多く開かれた。イギリス、ドイツ、アメリカなどの外交官、参謀本部の軍人、満州国の軍人、さらには文化勲章を受賞した文化人、茶会の実業家、旧加賀藩の出身者などを招いて開かれた晩餐会は、利為の加賀のお殿様として、侯爵として、陸軍の軍人として、そして、なによりも国際人としての幅広い交流を示すものであった。それはまた、戦時下に向かう状況において、多くの情報を収集、交換するための場でもあった。
しかし、利為は、しだいに軍の中枢からは外され、現役を退くようになる。東条英機との確執もあったとされるが、幅広い情報からの利為の判断、行動は、侯爵の地位と軍人の地位とのギャップを生じ、むしろ嫌われたともいえるだろう。1941年(昭和16)、対米開戦の半年前にも、アメリカ大使夫妻、米大使館一等書記官らを晩餐会に招いて情報を得ている。
利為は、翌1942年(昭和17)に、ボルネオ守備軍司令官を拝名したが、飛行機での視察中に遭難した。亡くなってから正二位に叙され、陸軍大将に任じられた。
主を失った邸宅は、夫人をはじめ一家は他へ移り、戦局がますます厳しくなる中で、1944年(昭和19)、中島飛行機が邸内の一部を買収し本社を移転してきた。そして、敗戦。1945年(昭和20)前田邸は、連合軍に接収され、司令官の官邸官邸として使用された。その後、富士産業(旧中島飛行機)の手を経て、昭和31年に和館及び一部の土地が国の所有となり、翌年、接収が解除となった。
1967年(昭和42年)、旧前田邸に公園を建設することが決定し、東京都立駒場公園として生まれ変わった。
現在は、修復工事が行われ、真紅の絨毯、装飾が刻まれた大理石の柱、金唐革の壁紙などで飾られた部屋が重厚な空間を演出している。半世紀にわたる激動の時代をくぐり抜け、竣工当時“東洋一の洋館”と謳われたほど豪華さが再現されているようだ。
参考:
『加賀百万石の侯爵 陸軍大将・前田利為』村上紀史郎 藤原書店 2022年
旧前田家本邸のフォトアルバム:
1.洋館
(1)外観
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駒場公園・南門入口 |
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大きな石灯籠 |
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洋館南面、芝庭 |
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洋館南面 |
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ベランダにあるプランターに、前田家の家紋「梅鉢紋」 |
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翼を持ったライオン像 |
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洋館正面 |
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洋館正面 |
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洋館正面 |
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スクラッチタイルの壁と、張り出した車寄せにとんがり屋根の塔 |
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車寄せ |
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洋館北面 |
(2)内部(各部屋、階段、装飾、照明)
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応接室 |
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階段下広間 |
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小客室 |
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大客室 |
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大客室 |
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大食堂 |
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大食堂・中央は白大理石のマントルピース |
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小食堂 |
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小食堂 |
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夫人室 |
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夫人室 |
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寝室 |
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寝室 |
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書斎 |
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書斎 |
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階段広間 |
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階段広間、ステンドグラス |
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階段 |
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大理石の柱 |
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大理石の装飾 |
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柱の装飾・カーテン |
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絨毯 |
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絨毯 |
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照明 |
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照明・天井に模様 |
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壁紙は、金唐革 |
2.和館
(1)外観
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洋館・和館は渡り廊下でつながる |
(2)内部・庭園
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大広間 |
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大きな沓脱石から飛び石 |
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池泉庭園 |
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