久米美術館「日本画コレクション銘品選」展 |
目黒駅前に久米美術館があります。ビルの8階にある小さな美術館です。ここで、「久米桂一郎日本絵画コレクション銘品選」が開かれているので、観てきました。
1.久米美術館
久米美術館は、歴史家・久米邦武とその長男で洋画家の久米桂一郎を記念して、二人のゆかりの地、目黒駅前に昭和57年に開館した。
久米邦武が、『米欧回覧実記』編修の功により下賜された500円を基に、この辺り一帯の土地を購入した。富士の見晴らしが良いことを好んだという邦武は、ここを京橋の本邸とは別に「林間の山荘」として利用していたが、明治30年代には目黒に本拠を移し、大正に入ると桂一郎も同居するようになった。 その後、昭和43年、目黒通り拡張のため久米家は移転、旧久米家跡の一角に現在の久米ビルを建設し、昭和57年久米美術館が設けられた。
(1)久米邦武(1839-1931)
久米邦武は、佐賀藩の生まれで、1871年(明治4)に特命全権大使岩倉使節団の一員として欧米を視察。1年9か月の長期視察を経て、帰国後に独力で視察報告書を執筆し、187年、40歳の時に全100巻の『特命全権大使欧米回覧実記』を編集した。これにより政府から500円という多額の報奨金を受け、これを基に目黒に土地を購入したほか、息子桂一郎をフランスに留学させた。
その後、1888年に帝国大学教授となったが、邦武の論文「神道ハ祭天ノ古俗」に対し神道界から反発を受け、教授職を非職し、論文は発禁処分となった事件(久米邦武筆禍事件)が起きた。
1899年に、同じ佐賀藩の盟友である大隈重信の招きで、東京専門学校(現・早稲田大学)の講師として迎えられ、ついで教授となり、1922年に退職するまで、歴史学者として日本古代史や古文書学を講じた。
なお、大隈重信とは終生の友誼があり、大隈は長く別居していた桂一郎と邦武の間に立ち同居を勧めたという。
(2)久米桂一郎(1866-1934)
邦武の長男桂一郎は、先に述べたように、私費で19歳の時にフランスに留学し、黒田清輝とともにラファエル・コランのもとで絵画を学び、帰国後も黒田とともに、美術団体を創設し、美術教育、美術行政にも携わり、日本洋画界の刷新と育成に尽力した。
桂一郎は、その最晩年にあたる大正から昭和初期にかけて、数多くの日本絵画をはじめとした東洋美術品を蒐集していた。そのコレクションを公開したのがこの展覧会である。
洋画家である桂一郎が日本絵画を蒐集した背景として、この時期には日本絵画が多く市場に出ていたこと。またこの時期、父邦武の家督を譲り受けたことがあり、蒐集する環境が整っていた。さらにフランス留学中に、浮世絵を中心とした日本絵画が人気となっていたこと、師であるラファエル・コランが日本美術の愛好家であったことなどの影響があったとされる。蒐集の動機としては、若き時代には西洋かぶれしていた桂一郎も、晩年には能に心酔するなど日本回帰ともいえる姿勢があったという。
参考:
久米美術館「館報」第39号 2022.8.1
2.日本絵画コレクション展
今回、展示されている約30点の日本絵画の中で、とくに印象に残った作品・画家をあげておく。
(1)英一蝶 「西行、鷺、鴉図」三幅対
英一蝶の描いたこの作品は、左に鴉、中に旅姿の西行、右に鴉のそれぞれ三幅の軸である。
この絵は、「烏鷺(うろ)」という、明らかに白いものを、無理やり黒いと言い張るように、ものの道理をわざと反対に言い曲げること、不合理なことという意味を含めているのだろうか。あるいは、御伽草子の「鴉鷺合戦物語」にあるように、祇園の林の鴉の真玄が、賀茂の糺の森の鷺、正素の娘に恋をし、その夫になろうと望むが却って辱めを受け、立腹のあまり同志を集めて激戦となるが、鴉の真玄側が敗北を喫する、という物語に意味を込めているのだろうか。西行が出家するに至ったのは、高貴な女性と逢瀬に、歌を詠みかけられて失恋したことによるという説もあるようだ。
英一蝶(1652-1724)は、元禄のとき、生類憐みの令に対する違反により三宅島へ流罪となった。しかし、島では絵を売って居宅を得て、家持ち流人となって商いも営み、名主の娘との間に子をなすなど、ゆとりある暮らしをしていたという。1709年に将軍代替わりの大赦により江戸に戻り、英一蝶と名乗った。
こうした一蝶の生涯をみると、罪も犯していないのに、白を黒といわれて罪を被ったという意味合いを込めたのか、あるいは、西行が、歌人としてのみでなく、旅の中にある人間として、歌と仏道という二つの道を歩んだことに、自らを重ね合わせたのだろうか。
三幅の絵から、こうした読み解きをするのも、鑑賞の一つだろう。
(2)鳥文斎栄之 「雨中牡丹図」「花魁に禿図」
どちらも肉筆画の美人画である。鳥文斎栄之(1756-1829)は、直参旗本の長男として生まれた。絵は初め狩野典信に学び、師の号「栄川院」より「栄」の一字を譲り受け「栄之」とした。後に浮世絵に転じ、師より破門を言い渡されたが、栄之の号は永く使用した。1798年頃には浮世絵を止めざるを得なくなり、肉筆の美人画を手掛けるようになった。この転向は、木版画の下絵を手懸ける者「画工」より、 肉筆画専門の「本絵師」のほうが格上と見られており、武家出身である栄之の出自と、当時の身分意識が影響していたとされる。
栄之の肉筆の美人画は、気品があり、清雅な画風であり、何よりも肉筆であることによりそれが際立っているようだ。
(3)野口小蘋 「塩勢穿巌図」
野口小蘋 (1847-1917)は、明治から大正にかけて活躍した南画家で、 奥原晴湖と共に女流南画家の双璧とされる。
明治10年(1877年)、31歳で酒造業の野口正章と結婚。その後、明治15年(1882)に上京したのが転機となり、展覧会などに出品し受賞を重ね、東京画壇を代表する南画家として広く知られるようになった。また、華族女学校(現・学習院)で教鞭をとり、皇族や宮家の画学指導につとめ、多くの作品が皇族や華族に買い上げられるなど、上流階級と深い関わりを持つようになった。明治37年には、女性初の帝室技芸員に任命され、宮内省からの注文品を多く制作した。
展示されていた「塩勢穿巌図」は、女性とは思えないほど力強いものがあり、タイトルにもあるように、その画の勢いは巌をも穿つものを感じた。
展覧会で観た特に印象に残った作品について、その絵師、画家の生涯をみると、その絵の持つ意味合いがさらに興味深くなりました。コレクションした久米桂一郎にとっても、それぞれの絵画に込める思いが深かったことだろうと推察されます。
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