深大寺・本堂 |
神代植物公園から深大寺に行きました。途中、段差があり、深大寺のほうが低くなっています。これは国分寺崖線で、武蔵野台地にはこうしたハケと呼ばれる崖線が多く見られ各地で湧水を生んでいます。深大寺は、縁起によると、奈良時代733年(天平5)に満功上人が創建したと伝えられ、都内では浅草寺につぐ古刹です。
深大寺では、いくつかの不思議に出会いました。
1.「神代」と「深大」の不思議?
先に行ったのは「神代」植物公園で、こちらは「深大」寺で、どちらも「じんだい」と読むが、何故隣り合っている場所にもかかわらず異なるのか?それぞれの歴史が刻まれていた。
江戸時代、深大寺周辺は「深大寺村」と呼ばれていたが、明治22年(1889年)に、この深大寺村と佐須村などいくつかの村が合併して、神奈川県北多摩郡「神代村」となった。戦後は、昭和27年(1952年)に「神代村」が町制施行により東京都北多摩郡「神代町」となったが、昭和30年(1955年)に調布市と神代町が合併して、現在の調布市が誕生した際に、神代町は廃止となり、このあたりは「深大寺町」と町名変更があり、「神代」という行政上の地名としては消滅した。
いっぽう、東京府は、昭和15年(1940年=皇紀2600年)に、「帝都防衛」などを目的に、東京区内の周囲を緑で囲むグリーンベルト構想が起こり、調布飛行場の周辺を「防空緑地」とするため買収し、当時は「神代村」であったことから、「神代緑地」と名づけた。そして戦後、昭和36年(1961年)、この緑地跡に植物園を開園する際、「神代緑地」の「神代」の名称を引きつぎ、「神代」植物公園としたことから、「神代」の名が残った。(なお、小金井公園もこうした都市計画の一環であったことは、東京異空間83:「小金井公園の桜」で触れた。)
ところで、明治22年に合併した際に何故「神代」という名となったのかは、よくは分かっていないようだ。ただ、この年に町村制が施行され、町村が合併した際に「神代」という名を付けたところが千葉県 、富山県などにもみられる。おそらくは、当時の時代背景として天皇を崇敬する国家神道が広まっていたことから「神代(かみよ)」としたのではないかと思われる。同じ年、明治22年には、大日本帝国憲法が公布され、その第一条には、「大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と掲げられた。
いずれにしても、神代植物公園と深大寺が隣接してありながら、どちらも「じんだい」というのは、紛らわしいが、公園と寺院ということでそれぞれの特徴を表しているともいえるだろう。
深大寺・山門 |
深大寺・本堂 |
深大寺・本堂とナンジャモンジャの木 |
本堂 |
大黒天・恵比寿尊 |
賓頭盧尊者 |
2.深大寺のおみくじの不思議?
深大寺の名は、仏法を求め天竺(インド)へ旅した玄奘三蔵を守護した水神「深沙大王(じんじゃだいおう)」に由来しているとされる。境内には、深沙大王を祀る深沙堂が建てられている。また、本堂の横に、元三大師堂が建てられている。ここに祀られているのは、元三大師(がんざんだいし)こと慈恵大師・良源(912-985)である。慈恵大師は、比叡山中興の祖といわれ、天台宗である深大寺にも祀られている。真言宗で大師信仰といえば空海だが、天台宗では元三大師であり、厄除け大師として、関東では、佐野厄除け大師や川越の喜多院が知られている。魔除けの護符として「角(つの)大師」などがあり、2本のツノをもち、骨と皮に痩せさらばえた奇妙な像は、良源が夜叉の姿に化して疫病神を追い払った時の姿であるという。この護符を玄関先などに貼っておくと魔除けになるという。
また、元三大師は、おみくじの創始者といわれ、いまでも「元三大師おみくじ」が引かれている。ここ深大寺のおみくじは、凶が多いことで有名。しかし「凶」を引いたからといって悪いわけではなく、「吉」に好転する力を秘めている、とされるそうだ。 では、深大寺の元三大師おみくじを引いて、「大吉」がでたら、どうなるのだろうか。まさか、「凶」に転ずるということはないだろうが。
深沙堂 |
深沙堂・扁額 |
元三大師おみくじ |
角大師 |
角大師・川越喜多院の護符 |
3.深大寺の釈迦如来倚像の不思議?
深大寺には、釈迦堂に釈迦如来倚像が安置されている。白鳳時代のものとされ、2017年に国宝に指定された。倚像というのは、倚子に腰をかけた姿を指し、仏像では坐像のほうが多く、こうした姿は珍しい。 その作風から、法隆寺の夢違観音や新薬師寺の香薬師(こうやくし)と同じ工房で鋳造された可能性があるとされている。(なお、新薬師寺の香薬師は、盗難に遭い現在所在が不明となっている。)
たしかに、この仏像を奈良の寺院で見るならば違和感は持たないが、なぜ関東の深大寺にあるのだろうか、しかも寺の創建(天平期)よりも前の時期である白鳳期に造られた仏像があるのか。次のような推測がなされている。
一つは、寺の宗派の観点から、深大寺はいまは天台宗であるが、かっては、興福寺などと同じ法相宗であったことから、畿内とのつながりが推測される。像の優れた造形や高度な 鋳造技法から、また夢違観音や香薬師との類似から、深大寺の開創より前に文化の中心であった畿内地域で製作され、その後、深大寺の本尊として迎えられたとも考えられている。
もう一つは、深大寺の開基である満功上人と朝鮮からの渡来人、福信という人物との関わりの観点から、当時武蔵国の国司として出世した、高句麗からの渡来人であった福信という人物がおり、深大寺の創建に当たって、開基である満功上人との関わりから、この仏像を本尊としてもってきたという説があるようだ。
この仏像については、記録がほとんどなく、伝来ははっきりしないが、明治42年(1909)に元三大師堂の須弥壇下から発見されたという。
先に述べたように、極めてすぐれた白鳳仏ということで、土門拳の『古寺巡礼』にも撮り上げられており、先日の東京都写真美術館での写真展でも土門拳の美の追求の一枚として展示されていた。(東京異空間102:仏像写真と美人画2023/4/19)
いずれにしても、古代の畿内と関東の文化交流を、この仏像が物語っていて、その美しさとともに、観る者に歴史のロマンと美の感動を与えてくれているようだ。
釈迦如来倚像(ウィキペディアより) |
新薬師寺・香薬師(ウィキペディアより) |
4.鬼太郎茶屋の不思議?
深大寺の門前には、そば屋が多く並び、「深大寺そば」として知られている。古くからそばの産地として知られていたようだ。古代に武蔵野台地を開拓した朝鮮からの渡来人によるという話もある。江戸時代には、土地が米の生産に向かなかったため、そばを作って深大寺に献上し、それを寺側が蕎麦として打ち来客をもてなしたという。三代将軍・家光が鷹狩りの際に深大寺に立ち寄り、その蕎麦を食べ褒めたという。このあたりの国分寺崖線(ハケ)による良質な湧き水が蕎麦の名所を支えたそうだ。
いまでは、門前に20数軒のそば屋が並んでいる。しかし、神代植物園の敷地としてそば畑は姿を消し、いまでは地元のそばは使われていないという。
そば屋が並ぶ通りの端に、鬼太郎の人形などが置かれている「鬼太郎茶屋」がある。ゲゲゲの鬼太郎の作者、水木しげるが、ここ調布市に住んでいたことから、ここに店を構えたという。数年前、NHK朝ドラで「ゲゲゲの女房」が放送され、この辺りもドラマに使われたことから人気を博したが、いまでは外国人も多く訪れる場所となっているようだ。
古代には、渡来人がやってきてそばを作り、そして今では外国人観光客がやってきてそばを食べと、このエリアも不思議いっぱいの妖怪ゲゲゲ・ワールドになっているのかもしれない。
鬼太郎茶屋 |
鬼太郎茶屋 |
鬼太郎茶屋 |
深大寺を訪れ、ここにいくつかの「ふしぎ発見」をしました。もうひとつ、本堂の近くにナンジャモンジャの花が咲いていました。ナンジャモンジャというのは、今で言えば「ナニコレ」という感じでしょうか。見慣れない立派な木、珍木、怪木などに地元の人々が名付けた愛称です。樹種としては、ヒトツバタゴを指すことが多いようですが、ボダイジュやクスノキなど他の木の場合もあるようです。境内に大きなナンジャモンジャの木があり、雪のような白い花を見事につけていました。これもまた、不思議の一つだと思い、深大寺を後にしました。
ナンジャモンジャの木 |
雪のような白い花 |
ナンジャモンジャの花 |
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