徐福公園 |
先の阿須賀神社は蓬莱山を御神体とするが、蓬莱山と言えば、神仙思想にもとづく徐福伝説があり、不老不死の薬を求め、徐福が来たという伝承が日本の各地に残る。ここ阿須賀にも、徐福が上陸したという伝説があり、阿須賀神社の境内には徐福の宮がある。、また新宮駅近くにつくられている徐福公園には、徐福の墓もある。
墓の近くには、徐福が求めた不老不死の霊薬ではないかといわれる天台烏薬(てんだいうやく)の木が植えられている。公園の売店には、その葉を用いた「徐福茶」なるものが売られていた。
徐福公園 |
徐福の像 |
徐福の墓 |
徐福の墓 |
天台烏薬の木 |
徐福の宮・阿須賀神社 |
また、徐福=神武天皇という説もあるようだが、神武天皇も、この熊野に降りたという。神武東征の際に、熊野灘に上陸して大和を目指したということで、阿須賀神社の境内近くにもその記念碑が建っている。
その神武天皇が進む道を案内したのが八咫烏(ヤタガラス)ということで、熊野三山には、三本足の烏がシンボルとして使われている。
神武東征の碑 |
新宮を流れる熊野川の南岸に、新宮城址がある。この城は、もともと源為義(頼朝の祖父)と、熊野別当の娘である丹鶴姫の住まいであったことから「丹鶴城」ともいわれる。熊野別当とは、熊野三山を統括した役職。
新宮城址 |
新宮城址の石垣 |
新宮より海岸沿いを西側に行くと那智駅に至るが、そこから、そう遠くないところに補陀落山寺がある。平安から江戸時代にかけて、観音浄土である補陀落山をめざして小舟で那智の浜から沖に出る捨身行として「補陀落渡海」で知られる寺である。
補陀落山寺 |
補陀落山寺 |
補陀落山寺 |
補陀落山寺 |
補陀落山寺の堂内 |
渡海船には鳥居が建てられ、屋形には扉がなく、屋形に人が入ると出入口に板が嵌められ外から釘が打たれ閉じ込められたまま、沖に曳航され綱を切られ漂流していく。そして、生還することなく、遺骸も戻ってこないことが浄土へ至った証とされたという。
この補陀落山寺の住職が、渡海行の主体となり、868年から1722年の間に25人よって行われた記録があるという。境内の記念碑にそれらの人々の名が刻まれている。
渡海船(復元) |
補陀落渡海記念碑 |
供養碑 |
補陀落山寺の横には熊野三所大神社がある。古くから熊野那智大社の末社で、明治の神仏分離により補陀落山寺から独立した。
熊野三所大神社 |
この後、那智駅から宿泊地の紀伊勝浦に向かいました。海に面した高台から、陽が落ちていく熊野の山々、反対側の海には、夕日に照らされる小島が静かに浮かんでいる光景を見て、もういちど、補陀落渡海という強烈な信仰心に基づく捨身行を行った僧たちの気持ちを想像しました。(想像もできないことですが)
なお、補陀落山寺を訪ねた際に、ご住職から、「ここは、よみがえりの地だからね」というお話があり,今回の旅のブログのメイン・タイトルとさせていただきました。
熊野の山々 |
熊野の山々 |
南紀の海 |
南紀の海 |
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