神倉山の山上に鎮座するコトビキ岩 |
紀伊勝浦からバスで新宮に向かう。バスを降りると、建物の間から山の上に小さく赤い社、大きな岩が見える。神倉山(かんのくらやま)の山上に鎮座するコトビキ岩だ。先の花の窟が「陰」とすれば、こちらゴトビキ岩は「陽」になる。
町から見える赤い社、大きな岩 |
神倉(かみくら)神社の前の「下馬」は、寛文2年(1672年)のもので、奥州のある人が熊野参詣7度を達成したことを記念したものだという刻銘がある。
神倉神社の前の「下馬」 |
その先の朱の鳥居をくぐると、目の前にかなりの急坂が迫ってくる。山上まではこの石段538段を登らなくてはならない。一歩一歩、ゆっくりと慎重に登るも、次第に息づかいが荒くなってくる。もう限界か、と思うほどに中腹まで登ると、ここからは傾斜が緩やかになる。
もうひとふんばり上がると、大きな岩が転げ落ちてきそうなくらいに目の前に迫ってきた。ゴトビキ岩、ゴトビキとは、ヒキガエルのこの地方の方言だという。この巨石が磐座(いわくら)で、神倉(かみくら)とは、神の「くら」、まさしく磐座の意である。
「古事記」「日本書紀」に記されているところでは、神倉山は、神武天皇が東征の際に登った天磐盾(あめのいわたて)の山であるという。また、熊野信仰が盛んになると、熊野権現が熊野で最初に降臨した場所であると説かれるようになったという。
ゴトビキ岩に引っ付くように建てられている社に参拝する。ここからは、青い南紀の海が見渡せる。
参拝して下りはじめたところに、先ほどトントンと駆け上がるように登ってくる女性がいたが、今度は、この女性が、ひょいひょいと降りてこられた。話かけると、この山を一日2回往復しているという。お歳はこちらよりも上ではないかと思うほど、腰も曲がっていらっしゃるが、こちらがゆっくり降りているうちに、その姿はすぐに見えなくなってしまった。この石段を一日、2回も、このスピードで登り降りするとは、何とも驚きだ。
青い南紀の海 |
松明をもってこの石段を駆け降りるのが「御燈祭り」といわれる神事で、毎年2月6日に行われる。この祭礼に参加できるのは、男子に限られ、「上り子」と呼ばれる。参加者は、1週間前から精進潔斎に努め、期間中は口にするものも、白飯、かまぼこ、豆腐など白い物に限られ、斎戒沐浴につとめなければならない、という。
当日、日も暮れるころ、、上り子たちは白づくめの装束に、腹から胸にかけて荒縄を巻き、熊野速玉大社、阿須賀神社、妙心寺を巡拝し、神倉神社に向かう。ゴトビキ岩の下の社で御神火が起こされ、中の地蔵と呼ばれるところで、上り子の持つ松明に移す。火をいただいた上り子は階段を駆け上がり、ゴトビキ岩の下で待つ男たちに火を分け渡す。門が開かれると、松明を持った上り子たち、約2000名もの男たちが一斉に石段を駆け下りていく。その様子は、遠くからは、まるで火の滝、下り竜のように見えるという、祭のクライマックスとなる。
それにしても、あの急で荒れた石段を松明をもって駆け下りるとは、これまた何とも驚きだ。
こちらは、帰りは、急な石段を避けて、「女坂」といわれる横道を下ってきた。
ここから上り子は石段を駆け降りていく |
御燈祭の記念碑(新宮駅前)
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すぐ近くにある妙心寺にも寄った。この寺は、かっては熊野比丘尼を統率する尼寺であったが、明治の神仏分離令により神倉神社と分離され、いまは熊野速玉大社の管理下にあり、御燈祭の上り子たちが神倉山に登る前に参拝する潔斎の場となっている。
寺とは言え、入口には小さな鳥居がおかれ、奥はひっそりと静かな佇まいになっている。
また、ガイドブックには載っていない、通りにあるいくつかのお寺にも静かな雰囲気が感じられた。
妙心寺 |
玉持地蔵尊 |
ゴトビキ岩の神の座に行けたこと、この急傾斜の石段を登り降りできたことの達成感(足腰も大丈夫!)も加わり、神倉神社の印象は深く残りました。
この後、お昼にこの辺りの名物、めはりずし、さんまの姿寿司をいただき、熊野速玉大社に向かいました。
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