2020年3月22日日曜日

よみがえりの地 16~旅の余滴

今回の旅を終えて、その「余滴」として、こんな写真も撮ってきました、また、熊野について、こんなことも考えてみました、ということでまとめてみました。























この旅において、印象に深く残ったのは、ゴトビキ岩(神倉神社)、花の窟(はなのいわや)、那智大滝(飛瀧神社)といった自然崇拝の形が残るところでした。熊野の自然環境である、山、森、樹、川、滝、岩、石、そして海が神の依り代として畏敬、ときに畏怖され信仰されてきたところです。
そうした神が、仏教の仏と習合し、さらに三山が一体化することによってそのパワー(霊験)をアップし、上皇をはじめとする貴族が参詣し、時代を下ると、地方有力者から庶民までもが参詣するようにするようになるなど、強烈な信仰を広めたようです。
また、熊(隈)野といわれるように、都から遠く離れた辺境の地であったことが、「他界」への憧憬をよび、それが浄土への憧れとなったと考えられます。精進潔斎して、難行苦行の熊野古道を歩くことは、浄土(死)への葬送儀礼であり、神・仏(熊野権現)を拝し、響き合って感得し、帰路は、死からの再生、すなわち<よみがえり=黄泉国から帰る>の道となりました。
末法の世になると、「粟散辺土(ぞくさんへんど)」、仏教の中心インドから遠く離れた日本は粟のように小さい国で、人は堕落し救済されがたいという考えが広まりました。そこで、仏が仮に神の姿をとって、この辺土に現れ救済することになったという、いわゆる「本地垂迹説」となり、神々は、共同体の神から個人を救済する神に変貌しました。こうした辺土観念が熊野の辺境の地と結びついて熊野権現の霊験を高めたとも考えられます。
平家物語には、次のように語られています。
この国は粟散辺土と申まうして、心憂き境にて候。あの波の底にこそ、極楽浄土と申して、めでたき都の候ふ。それへ具し参ゐらせ候ふぞ

熊野は、「浄不浄を問わず、信不信を問わず」といわれるように、貴賤男女を問わず、広く受け入れました。いまも、花の窟の前に跪いて拝む女性、ゴトビキ岩に一日に2度も登る女性に、深い信仰の姿をみることができました。
熊野比丘尼の活動が女性の信仰を広めたといわれます。彼女らが語ったという「熊野本地絵巻」には、苦悩する神、女性が描かれています。また熊野比丘尼が牛王宝印とともに、信仰を広めるために用いたとされる「那智参詣曼荼羅」、「熊野歓心十界曼荼羅」といった絵図があります。この曼荼羅に描かれているのは、補陀落渡海、那智滝、那智社殿などとともに、道を歩く人物も描かれていて、この絵解きをすることによって、聖地・熊野に誘うようになっています。現実には熊野に赴くことはできない多くの庶民(女性)は、この絵により、聖地への巡礼を追体験したということです。
曼荼羅に描かれた世界を含め、熊野には、まだまだ興味が尽きません。

今回の旅で、熊野という「異空間」を歩き、いまも、その中にあるような不思議な想いが残っています。また、機会があれば行ってみたいところです、カメラを持って・・・。
それもまた、自分にとって<よみがえり>となるのでしょうか。

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