那智の滝を祀る飛瀧神社から、バスでJR那智駅に出た。そこから宿泊予定地である白浜に列車で向かう。ここからは南紀の海を巡る旅となる。海に行く前に、出会った南紀の偉人を取り上げたい。
那智駅から白浜に向かう途中、串本駅で降りる。駅から15分ぐらい歩くと無量寺があり、ここには長沢芦雪の襖絵がある。なぜ、南紀のお寺に芦雪の絵があるのか?
無量寺の住職が京で修行中に円山応挙と親交を持ち、寺を建てたときには、絵を描いてもらいたいと約束をしていた。住職が本堂を再建したときに、応挙はすでに一家をなしていて忙しかったが、約束を守り、自分の代わりに高弟の芦雪を遣わした。芦雪は求めに応じて、本堂の左右の襖いっぱいに「龍」と「虎」をダイナミックに描いたという。芦雪、33歳(1786年)のときであった。
この絵の本物は、収蔵庫に収められ、複製が本堂の襖に収められている。いまは応挙・芦雪館として、芦雪の絵と共に、円山応挙の作品、白隠の大燈国師など、見ごたえのある作品が所蔵されている。また、訪れたときは、釈迦の涅槃会の時期で、特別に美しい「涅槃図」が掛けられていた。
なお、今回は、行くことができなかったが、芦雪は、南紀では成就寺、草堂寺にも障壁画を残している。
長沢芦雪「龍図」 |
無量寺・本堂 |
無量寺・本堂 |
無量寺・本尊 |
無量寺・涅槃図 |
無量寺・涅槃図 |
無量寺・山門 |
無量寺・本堂 |
南紀の偉人といえば、「知の巨人」といわれる南方熊楠が挙げられる。白浜には「南方熊楠記念館」が、田辺には南方の邸宅の横に「南方熊楠顕彰館」があり、それぞれ彼の知の遺産を展示、所蔵している。
南方熊楠が、明治19年(1886年)アメリカに渡るときに、「僕も是から勉強積んで、洋行すました其後は、ふるあめりかを跡に見て、晴る日の本立ち帰り、一大事業をなした後、天下の男といわれたい」と、その決意を友人に書き送っている。
また、南方熊楠の思想の根源を表すものだといわれる「南方マンダラ」という図がある。これは、すでに歩いてきた大門坂の横にあった「大阪屋」に籠り、那智山中から得た科学と大乗仏教を接合する世界認識を示しているという。
また、昭和4年(1929年)には、昭和天皇を神島で迎え、長門艦上で御進講した。そのときにキャラメルの箱に粘菌を入れて献上したというのは、良く知られている。
昭和天皇は、のちに熊楠との一期一会を懐かしみ詠んだ歌を刻まれた碑が記念館の前庭に建てられている。
「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし 南方熊楠を思ふ」
南方熊楠 |
南方マンダラの図 |
南方熊楠顕彰館の邸宅 |
南方熊楠顕彰館の邸宅 |
大阪屋 |
昭和天皇歌碑 |
旅の初日に宿泊した渡瀬温泉の近くにお墓がある山本玄峰(1866-1961)という禅僧がいる。名前は知らずとも、「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」という言葉は誰しもが知っているだろう。
終戦の玉音放送で使われたこの言葉は、玄峰老師が、ときの鈴木貫太郎首相に宛てて送った書簡から取られて用いられた、という。
山本玄峰 |
時代をさかのぼって、院政期に34回もの熊野詣をしたという後白河法皇。その編纂した「梁塵秘抄」には、次のような歌が詠まれている。
熊野へ参るには
紀路と伊勢路のどれ近し どれ遠し
広大慈悲の道なれば
紀路も伊勢路も遠からず
この歌が刻まれた「後白河法皇梁塵秘抄歌碑」が速玉大社の境内に建てられている
それにしても、なぜに、険しい熊野の山道を難行苦行して、熊野詣をしたのだろう。大雨や川の氾濫など自然の災害にも遭遇したこともあっただろう。そこまでして熊野に行くのには、どのような深い信仰があったのだろうか。
時宗の宗祖、一遍(1239-1289)も熊野とかかわりが深い。一遍は念仏を勧める決意をもって伊予を出て、四天王寺、高野山を通って熊野に参詣した。本宮に向かう途中、一人の僧に名号札を渡し念仏を勧めるが、いま一念の信心が起こらないので受け取れないと拒否されるも、押し付けるように名号札を渡した。その後、到着した本宮の証誠殿で黙想すると、熊野権現が現れ「相手の信不信にかかわらす、また浄不浄にかかわらず、名号札を配り、念仏を勧め衆生の救済に励むがよい」との神託を得て、「我生きながら成仏せり」と、このとき成道した。一遍、36歳のときという。
大斎原に「一遍上人神勅名号碑」が建立されている。
「一遍上人絵伝」は、このときの様子が描かれているとともに、熊野三山の社殿や人々の熊野詣の様子なども描かれていて、一遍と熊野のかかわりを見るのに興味深い絵巻となっている。
一遍上人神勅名号碑 |
紀伊国の生まれだとされる人物に、武蔵坊弁慶がいる。五条の大橋で義経と出会って、以来、郎党として彼に最後まで仕えたということは、良く知られているが、熊野別当の子だという伝承があるということは、知らなかった。
弁慶の木彫像が速玉大社の神宝館の前に置かれているのは、なぜか、というのが氷解した。
芦雪の絵がある無量寺(応挙・芦雪館)は、この機会にぜひとも寄りたかったところです。ダイナミックに描かれた虎は、いまにも飛び出してきそうな迫力がありました。
南方熊楠は、南紀の偉人としては、よく知られていても、その業績などは、なかなか理解しがたいものがあります。南方の記念館などで、少年期から記憶力に優れ、「和漢三才図会」を記憶しながら筆写したという実物を見たり、膨大な粘菌の収集品、南方マンダラの図などを見ることによって少しは近づくことができたように思えます。とくに「天下の男」といわれたいという言葉は、明治人の気概を表しているようで、ズシンと響いてきました。
これらの偉人を生んだのは、やはり熊野の厳しい自然環境、また熊野の持つ神秘的な信仰環境であったのだろうと思いました。
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