2020年3月20日金曜日

よみがえりの地 13~闘鶏神社

白浜から紀伊田辺までは、列車で10分程度である。駅から歩いて5分ぐらいで、闘鶏神社に至る。また、田辺には、南方熊楠の邸宅(併設して南方熊楠顕彰館)があり、あわせて訪問した。
闘鶏神社

闘鶏神社の名の由来は、平家物語で語られる源平合戦の故事によるもの。源氏と平家の双方から援軍を要請された熊野水軍を率いる熊野別当の湛増は、どちらに味方するかの神意を確認するため、赤(平氏)と白(源氏)に見立てた鶏を闘わせたところ、白が勝ったことから源氏に味方することを決め、壇ノ浦に出陣し、源氏の勝利に貢献することになったという。
境内の一角にはその様子を再現した湛増と弁慶の像がある。弁慶は、湛増を父とすると伝えられる。
なお、運動会での紅白対抗や、紅白歌合戦などのルーツは、ここにあるという。
闘鶏を見守る湛増と弁慶

赤(平氏)と白(源氏)の鶏の闘い

鶏の闘い

また、田辺は、熊野古道の大辺路と中辺路の分岐点であることから、熊野三山の別宮的な存在として、この宮に参詣して、三山を遥拝して引き返すこともあったという。
社殿は、江戸初期の再建によるものが6棟が揃って遺存するもので、流失する以前の熊野本宮大社の社殿の形を残している神社建築であるという。
前回取り上げた南方熊楠の妻(松枝)は、闘鶏神社の宮司の四女であり、そうした縁もあり、熊楠は、この闘鶏神社の背後の山をクラガリ山と呼び、自然豊かな森を熊野植物研究の中心地とした。



参詣する人が




本宮大社の社殿の形を残している





今は、この闘鶏神社を訪れる観光客は少ないかもしれないが、かって熊野詣では、この先の険しい道を通ることなく、ここに参拝することで、熊野権現の三山御参詣に替えるという、熊野信仰の一翼をみることができました。また、平家物語で語られる故事や、熊野の歴史の一端をのぞくことにもなりました。

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